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2007年7月 5日 (木)

メモリアル-腎細胞癌発見19-入院生活 主治医との立ち話-

2005年12月28日(水)
朝に腎癌の組織検査結果が出る。
結果はごく普通の腎細胞眼で、ステージⅠ。特に増殖が速いたちの悪い癌ではなかった。
それはよかったけど、主治医に速効で出してもらった診断書、JICAの健康管理センターにFAXしても顧問医は出勤しておらず、午後になって出勤した途端、派遣は許可できないと連絡。

なんのコトはない、最初から派遣中止は決まってたようだ。お役所としては、ど~してもmhkの協力隊の訓練開始予定の翌月の1月6日の前に書類が欲しかっただけなのだろう。
隊次変更の申請のためには12月28日までに診断書必着』という医療調整員のコトバを真に受けて、組織検査結果の出る日を毎日毎日心配して、結果が出たら即主治医に無理にお願いして診断書を速効で出してもらい、病院の総務からFAX送信してもらったのが馬鹿みたいだった。

この辺は『お役所』の融通のきかないところなのだろうか。

入院前に29日が退院予定とJICAサイドにも言ってあったのに28日までに診断書必着という条件をJICAが出してきた。mhkが入院中であっても、何が何でも期日どおりに診断書を要求してきたわけである。

そんな無理を言って診断書を要求してくるということは、隊次変更の申請が可能だからなのかとmhkとしては、ほんの少しの可能性に賭けようと頑張ったのだ。

隊次変更申請の可能性がないのであれば、治療が済んで、退院後に年明けて診断書を提出するように言うだろうと思ったのだ。腎癌告知を受けたのが12月1日。転移があるかどうかの検査全てを終えた12月5日にはJICAに連絡した。その後12月12日に入院の日程が決まり次第、12月19日~29日に入院すると連絡した。その際に隊次変更の申請をするなら28日に診断書必着と申し渡されていた。

少しでも協力隊派遣の可能性が残るならと、まだお腹も痛む時に必死で先生にお願いし続けて、出してもらった診断書だったが、結局何の役にも立たなかった。

FAX送信した後顧問医師が出勤しておらず、午後出勤してきたら即派遣中止の連絡を病院に連絡してきたことにショックを覚えた。自分が道化のように踊らされていたのだと知ったのだから。

派遣中止というJICAの顧問医師の判断に文句を付けるつもりはない。でも、突然避けようもなく癌という病気の事実を突きつけられた人間に、規定に従って書類のみを要求するという対応は、どうにかならないのだろうか。普段の健康な状態だったら、『お役所はねぇ』と苦笑いで済ませることが、病気の時は精神的ダメージが大きく、傷つくものだ。

もう1年半も前のことなのだが、こうして、詳細に思い出して、書いていると、とても辛くなって、涙が出てしまう。

JICAの医療調整員との電話の後、病室でベッドの周りのカーテンを閉めて、声を殺してしばらく泣いていた。 幸い検温の時間が終わった直後だったので、看護師も来なかったから、泣いているのを見られずに済んだ。家族も来る予定はなかったことも幸いであった。随分長いこと泣いていた。腸が動き出してもお腹が少し張った状態が続いたのに、毎日組織検査が出るかどうかを心配して、先生にお願いしていたので、疲れがどっと出たのもあったのだろう。

しばらくして、そのままベッドに寝ていると、精神的に沈んでしまいそうだったので、散歩に出かけた。真冬で、その年は特に寒くて福岡も結構雪が降って、冷え込みも厳しかった。なので、屋上には出られないし、病院の中を歩き回るだけなんだけどね。

ちょうど、1階の廊下を歩いていると、主治医にばったり会った。目があった時、先生が、にこっと笑った。普段あんまり笑った顔を見たことがなかったので、おやっと思った。そこで、JICAの顧問医の決定を告げた。

mhk :駄目でした。隊次変更申請のためには今日が診断書必着と言われていたのですけど、送ったら、まだ顧問医は来られていなくて、1:00過ぎに来られた途端派遣中止、隊次変更も認めないと連絡が来ました。
主治医:え、検討もしてもらえなかったの?
mhk :はい、(だめ。涙はこらえたけど、声が震えてきた)最初から派遣中止は決まっていたみたいですけど、一度健康診断もクリアして、派遣候補にしたので、それを中止する手続きのためにはどうしても診断書が必要だったみたいです。
主治医:ふ~ん。(首をかしげながら)そのJICAの顧問医というのはそんなに絶対的な権限があるのですか。
mhk :健康問題については専門の顧問医師の意見を重要視しますから。
主治医:ふん。顧問医の意見はたとえ小さな癌でも『癌』という病気になった人は1年以内には派遣はしないという判断なんでしょう。診断書はね、大事をとって、再発の確率を20%と書いたけど、小さい癌だし、今の最新のデータをよく調べると多分10%以下といえる。わたしにできることは協力しますよ。
mhk   :ありがとうございます。

その後会釈してわかれた。

まだ、派遣中止決定を申し渡された直後で泣きたい気分のままだったけど、先生の『わたしにできることは協力しますよ。』という言葉がうれしかった。健康問題はどうしても医師が判断するので、mhk自身が健康体だということを証明するためには、どうしても執刀医である主治医のサポートが必要だったから。

一見ぶっきらぼうな感じだが、主治医は癌告知以来、一貫して患者であるmhkの声に耳を傾けてくれた。尋ねたことは丁寧に説明してくれるし、どうしても協力隊派遣を実現させたいう気持ちをぶつけたmhkの声にも耳を傾けてくれた。

今回は駄目だったけど、手術から時間が経てば、派遣の可能性も出てくるだろうし、その際にもmhkが健康体であることを証明するのに力を貸してくれる主治医が頼りなのだ。

入院中ずっと診断書をお願いしますとしつこく言い続けていたことが少し恥ずかしくなったけど(← 結局JICAが期日中に欲しい書類を用意したに過ぎなかったので)、その際に嫌な顔もせずに対応してくれた先生と、それに協力してくれて、快く総務からJICAにFAXを送信してくれた看護師さん達の親切を思い出し、改めて病院スタッフに対する感謝の気持ちでいっぱいになった。

退院後、年明けてからがJICAに対して健康体を取り戻したことをアピールする本番だと思っていたので、それが退院する前に派遣中止、隊次変更申請却下が決まり、気持ちがすっかりくじけてしまった。何しろ協力隊派遣のために会社を辞めた翌日の癌告知、治療は告知後1ヶ月以内に済んだというのに、退院前派遣中止=(会社を辞めていたので)失業となったのだ。今からいっしょに協力隊派遣される仲間との新たな出会いがあるとわくわくした気持ちで、未来に向かって羽ばたこうと思っていた矢先に羽を1本残らずむしりとられた気分だった。

その最悪の気分の時に『私にできることは協力しますよ。』と言ってもらったことは、随分救いとなった。

その夜もベッドの中で随分泣いたけどね。

腹部エコー検査でしかわからなかった自覚症状なしの状態の癌告知で、自分が病気だという事実が受け入れられない状態で無事に治療を終えられた。早期発見で結構なことなのだが、心はなかなか受け入れられないままだったのだ。

多分会社勤めを続けている時だったら、治療が終わった段階で、退院後自宅療養の必要もなく、勤務開始可能という状態だったから、何ということなく日常生活に復帰できただろう。それが、mhkの場合は病気=失業という、仕事の面でいうと、最悪のタイミングだったため、ちょっと心のダメージも大きかったようだ。

mhkの理性とは違ったところが悲鳴を上げていた。退院直前はそんな状態だったと思う。

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