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カテゴリー「01.メモリアル-腎細胞癌-」の22件の記事

2007年7月11日 (水)

メモリアル-腎細胞癌発見22- 治療費の話 -

この記事、書着終わってアップしている最中に7/10の0:24 ココログフリー緊急メンテに突入~。復旧まで24時間かかり、管理画面に入れず、昨日の0:00過ぎにようやく復旧。

しかし~記事の半分は残っていなくて、書き直しでしたぁ~。

↓ ここから始まり

mhkのブログを訪れてくれる人の検索履歴を見ていると、青年海外協力隊、JICA関係と腎癌の関係の言葉が多いです。

このブログを読んでくださっている方の中には、今から腎癌の治療をされる方、今経過を見ているという方がいらっしゃるのかもしれません。

参考になるかどうかはわかりませんが、治療費のことをお話しておこうと思います。

mhkは元々理系の大学院を出て、技術職を10年ほど(転職もあったけど)経験して、その後、日本語教育のお勉強を始め、社会人入学で日本語教育の関係の大学院修士課程に進みました。

2度目の修士課程修了が2005年3月。在学中2004年の秋に1度青年海外協力隊を受けたのですが、その際は二次選考までいって不合格でした。で、もう1度チャレンジしたくて、修士修了後に2005年4月から以前やっていた環境分析の仕事を派遣社員(半年契約)として始めたわけです。4月募集の協力隊に応募して、受かったら契約の更新をしない、駄目だったら更新して仕事を続けようと思ったわけ。

働きながら2度目の協力隊受験で2005年8月にめでたく合格、派遣国はネパール。(が、12月1日に腎癌告知・・・派遣中止)合格したので、半年契約を断り、2ヶ月更新にしてもらい、11月30日までの契約に。

働いている期間中は派遣会社の健康保険組合(=派遣健保)の組合員だったわけ。退職後2005年12月1日より国民健康保険に。どっちにしても3割負担。

国民健康保険料は前年の2004年の住民税を基準に計算されるのですが、社会人入学で学生やっていて、ほとんどバイトもせず、ほとんど収入がなく、その年は住民税ゼロで、保険料も安かったです。

気まぐれで受けた11月29日の健診は派遣健保の健診サービスで健保が補助金出してくれて、たった3,000円で胃カメラ、腹部エコー、血液検査、乳ガン検診、子宮癌検診、心電図、尿検査、胸部X線など受診!これが運命の分かれ道・・・。

仕事止めたら、東京での研修、長野県駒ヶ根訓練所での訓練を経て3月にはネパール~のつもりだったから、病院に行っている暇なんてないし、国民健康保険には殆どお世話になるつもり無かったのですよ。それがお世話になりまくり!!!だったのですから、一寸先は闇です。ホント。

2005年
11/29 ¥ 3,000  健診代(派遣健保からの補助で手出しがたったのこれだけ。)この健診のエコーに引っかかり、精査で同じ日にCT
 
11/2914,000  CT検査(造影剤有) 
この額だけは2006年3月の確定申告で領収書を提出したので100の位以下はわかりません・・・。この日まで派遣健保にお世話になりました。

↓ 11/30で退職したので、12/1から国民健康保険

12/ 1     440 診察とカテーテルで採尿した尿検査(癌告知特別料金?なんてのはなかったよ・・・当たり前・・・か。)
12/ 2 11,090  RI 検査(腎シンチ)
12/ 5   18,240  肺の単純CTとRI検査(骨シンチ)
12/12    6,050  胸部X線と血液検査など 術前の健診 家族への説明があった日
12/19~12/29   243,850 (内、文書料 \8,400)

2006年 
 1/ 6      1,730 血液検査、尿検査
 3/20     5,320   CT検査(造影剤無)     
 5/22     1,270 血液検査、尿検査
 7/10       \ 210 診察のみ(手術の傷痕が引きつったように痛むのが気になって行きました。何でもなかったよ。)
7/12      10,170  CT検査(造影剤有)

2006年7月募集の青年海外協力隊の短期派遣に応募し、一次選考パスして、二次選考の面接へ。その際、主治医の診断書提出を要求された。最初出したのが不十分と2通も。(2通ともJICAが費用を出した。一次選考通ると費用がJICA持ちになるのだ。1通3,150

9/8        1,280 血液検査と尿検査 

二次選考パスしたので、9/20~2007/1/31は中国大連に青年海外協力隊員として派遣

2007年 
2/16    11,280 血液検査、尿検査、CT検査(造影剤有) 帰国後の最初の検査!
4/ 2           210 診察のみ 3月募集のシニア海外ボランティアの短期募集に応募したら一次選考にパスして、二次選考の面接。その際再びJICAから診断書提出を要求され、診察に行きました。(診断書料  3,150はJICA持ち)この時は二次選考で競合または要請不適で不合格。
5/16          210 診察のみ (本来は血液検査と尿検査があったのですが、5/2に別のクリニックで受けたJICAのシニア海外ボランティア応募用の健診の結果を見せたので検査は省略)
6/22      210 診察のみ (シニア海外ボランティア春募集(長期)で健康問題で一次不合格の後、相談に行って)

以上が腎癌が発覚して支払った治療費の全てです。

入院費の内訳は以下のとおり。

保険分負担額:
基本料 305点 投薬料 174点 注射料 1501点 処置料 716点 手術料 49722点 検査料 1683点 レントゲン料 1656点 入院基本料 20663点
(小計)76420点 3割負担なので、76420点×3= 229,260

保険外分負担額:
食事負担金  5,460  文書料  8,400(簡易保険とJICA提出用で診断書2通)
その他  730
(小計)  14,590

保険分+保険外の合計 =  243,850

さて、2005年12月は
12月1日に癌告知されてから検査で通院、10日の入院で、1ヶ月の医療費は合計 \279,670 このうち保険分負担額は 265,080

1ヶ月の自己負担額が限度額を超えた時は、所属の健康保険に申請すればその超えた分が後から返ってきます。(一度高額な医療費を払って、申請して後から返してもらうのでなく、いずれ、病院窓口の処理のみで済むようになるようですが・・・。)

で、その限度額は所得によって異なるのです。mhkは上に書いたように、前年学生やってて、収入がほとんどなかったので、住民税非課税世帯となり、自己負担限度額は¥35,400でした。

つまり、265,080  - ¥35,400  = ¥229,680 が申請後に返ってきたわけです。

実際は端数処理かなんかのせいでしょうか、¥229,677が2006年3月31年に保険年金課から振り込まれていました。

そのため、2005年12月に支払った医療費は結局文書料を除いて、¥41,593となるわけです。

こんなに安くて済んだのにはわけがあります。この高額医療費の限度額って同じ月内に支払った額に対して適用されるのです。つまり1ヶ月の治療をしても、例えば12月から1月と次の月に渡ってしまうと、それぞれ12月の合計と1月の合計に対して限度額が適用されるので、限度額は倍となります。

mhkの場合は癌告知が12月1日で、術前の検査から入院、手術で、退院が12月29日と、1番お金がかかる検査、手術が全て12月以内に終わってしまい、こんなに安くて済みました。

悪性腫瘍でなるべく早く処置した方がいい場合は入院日程を同じ月になるように調整・・・なんて悠長なことは言ってられないでしょうが、それほど急がないでいい場合は入院の日程が別の月に渡らないようにした方がお得です。

mhkの場合は悪性腫瘍で待ったなしで入院だったのに、タイミング的にちょうど何もかも12月中に片が付いて、高額医療費支給がとても効率よいものとなったわけです。

そういうわけで、腎癌になって、失業したけど、2月から雇用保険もらったし、金銭的には困らなかったです。

高額医療費のことは今後変わっていくとは思いますが、自分が所属する健康保険の制度がどうなっているかを入院する際は調べておくことをお勧めします。

また、mhkの場合はネパール派遣が決まったJICAの青年海外協力隊への応募用の健診の内容は全てクリアしてたのですが、たまたま派遣健保の補助があった健診を受けて、腎癌早期発見につながりました。38歳の時です。

若いからと言って、油断せず、もし所属する健保でそういう補助の制度がある場合は人間ドックをしてみるといいです。扶養家族も受けられるサービスを実施している健保もありますからね。ご自分の所属している健保にwebサイトがあれば、一度覗いてみることをお勧めしますよぉ~。

早期発見の癌は治療成績もよいですし、ちゃんとした病院で、ちゃんとした医師が診てくれたら、完全な健康体になる確率も高いのですよ。mhkは完全な健康体です!!

2007年7月 7日 (土)

メモリアル-腎細胞癌発見21-退院の時の主治医の言葉 -

2005年12月29日(木)
もう病院も前日御用納め。看護師さんも少ない。
前日協力隊派遣中止、隊次変更申請も却下でしょんぼりモードのmhk。
2日前に出産した妹にもJICAの決定を報告。

午前中もう主治医が病室に来られた。通常勤務だとお休みなんだろうけど。
新しい同室の女性は病院で年越しだが、空いた病室も多い。
悪性腫瘍で優先的に手術日程に入れてもらったmhkと違って良性でそれほど手術を急がないケースだと、わざわざ年をまたいだ入院にはしないからね。
妹のように出産だと待った無しだし、年越し患者さんも多いけどね。

ドレーンチューブがついてた箇所の傷の消毒。ホント、この先生、消毒も全てご自分でされたなぁ~。毎日来られてた。以前良性の卵巣嚢腫の手術の時は毎日は先生病室に来られなかったけど。手術直後に病室に来られたのと、抜糸の時に1回、後は外来でこっちから行っただけだった。あの時は術後全く調子が悪いこともなく、不安もなかったので、先生の顔見なくても平気だった。やっぱり今回は前と比べると大きな手術だったからかな・・・

消毒後、もうガーゼを当てるのではなく、絆創膏でいいことになり、絆創膏を貼ってもらった。

その後、術後に24時間採尿して検査した結果、血液検査の結果も問題なかったことを告げられた。説明し終わって、

主治医:年内に退院は可能ですよ。いつがいい?
mhk  :今日
主治医:あ、今日?
mhk  :はい。(だって、入院前は退院予定、29日か30日ってなってたし、もう抜糸終わったし、診断書書いてもらって(結局駄目だったけど)用事ないし・・・ mhk心のつぶやき)
主治医:あ、そう。じゃ、退院の手続きとるから待っててね。消毒薬出しておくから、家で自分で消毒してね。
mhk  :あの~お風呂は入っていいですか?(手術以来お風呂入ってないので、もう限界~!!!体は毎日自分で拭いてたし、髪は一度我慢できなくて、洗濯場で洗ったよ。)
主治医:あ、いいですよ。今貼ったのは(絆創膏のこと)防水性いいから、これを売店で買って帰って。これね。(と見せる)
mhk  :眼鏡がないとみえない・・・(視力0.1ないので・・・処置してもらう時はベッドに横たえているから眼鏡はずしてるのよね)
主治医:あっと、眼鏡眼鏡・・・(棚のところを探してmhkの眼鏡を取ってくれる)はい、眼鏡。
mhk  :(眼鏡をかける)
主治医:これね。(今さっき貼ってもらった絆創膏の包みを見せる)デルマポアドレッシング
mhk  :はい。(ふ~ん。dressingは包帯の意味あるもんね。デルマってderma-って皮膚って意味だけど、そのドイツ語風読み??なんて、包みに書いてあるカタカナの横のアルファベットのスペルを見ながら感心してた・・。)
主治医:(看護師さんに)デルマポア売店にあったよな?
看護師;はい。

その後主治医は退院手続き取りに病室を出て行った。

やったぁ~!!!!予定どおりぃ~。家に帰れるぅ~

しばらくして、看護師さんが病室に来て、入院費の概算を教えてくれた。19日~29日で、大体24万円。もう会計操作できないから、いくらか会計で払って、残りを次回外来の際に払うように言われた。その時看護師さんが一言『そうねぇ。家に戻った方が気が紛れれいいかもねぇ。』(あれ、そんなに傍目で見てわかるほどmhkはしょんぼりしてたのかな。。。)

そこで、母に電話して迎えにきてくれるようにお願いして、24万円もってきてくれるように頼んだ。だって、外来に来る時にバス移動で、そんな大金持って行くのいやだもん。両親は車で来るからね。

もう、パジャマ脱いで、Gパンに着替えて、売店にデルマポア買いに行って、荷造りOK!!!売店から戻る途中、廊下を歩いていると主治医がナースステーションから呼んでいる。

主治医:ご家族の方に退院前に説明したいんだけど、何時頃来られる?
mhk  :聞いてみます。

父の携帯にかけると、ちょうど城内を走っていて信号停止中に電話とってくれた。(城内っ福岡城の辺りの地名で、もう中央区にある病院のすぐ近く)

mhk  :今城内にいるそうだから、もうすぐ到着です。
主治医:来られた時に、ここに(自分が)いなかったら、看護婦さんに呼んでもらって。
mhk  :はい。

しばらくして、両親到着。預かっている妹の上の子の4歳児を4階の妹の所に置いてきたって言ってた。ママがいなくて寂しいのを我慢して爺ちゃん、婆ちゃんのところにいるのだ。

母からお金をもらって、会計に払いに行ってからナースステーションに両親伴って行った。先生はいらっしゃった。

前日診断書を書いてもらう時にmhkに話された内容だった。
主治医:たまたま受けた健診で見つかった癌でしたが、組織検査の結果、サイズは1番大きいところで1.9cm。エコーで見つかるにしても最小のサイズの癌でした。組織学的にいうと、ステージⅠの普通の腎細胞癌でした。特にどんどん増殖が進むというような癌ではありませんでした。クレアチニンの値も腎臓が1つなくなったけど、1.1です。これから左の腎臓がどんどん頑張ってよくなるかもしれないし、それはわかりません。
(その後、ちらっとmhkの方を見て)青年海外協力隊派遣は本人が希望するとおりにはなりませんでしたが、まあ、命には代えられないと。これからの人生頑張ってください
これからの経過ですが、この病院で診ていくことになります。退院後は年明けて、1月6日に来てください。予約は取っておきます。
mhk :(さっき言われたことで泣きそう)はい。
主治医:傷を消毒する薬もらった?
mhk  :はい。
主治医:それでは、お大事に。
母   :ありがとうございました。おかげで命拾いしました。
主治医:いやいや。

主治医が立ち上がってナースステーションを出ていった。

両親と一緒に妹の病室に行って、赤ちゃんを見て、ママと分かれたがらない上の子を連れて、車に乗り込んだ。

そう、10日間の入院生活は終わった。無事に右腎臓摘出手術は終わり。協力隊派遣への夢も消えた。

主治医はたくさんの言葉を言ったわけではないけど、JICAへの診断書提出にあたっては大変よくしてくださった。本人の希望が一番と、余計なことは一切言わず。最後に退院の時に一言だけ『命には代えられない』とだけ。

心にずっしり響く一言だった。

2007年7月 6日 (金)

メモリアル-腎細胞癌発見20-協力隊が見つけてくれた腎癌 -

2007年12月28日(水)
青年海外協力隊派遣の隊次変更申請却下したという連絡を健康管理センターの医療調整員から聞いて、がっくりきて、その日は随分泣いた。

夕食が終わった後こっそり病院の屋上の階段の所に行って、携帯で前の職場の人に電話した。その人には癌告知される前日にmhkの送別会が終わった後、健診で引っかかって病院に行かないといけないことを告げていたのだ。それ以来連絡してなかったし、心配していると思ったからね。今までの経緯を説明したら、さすがに癌と聞いてびっくりしてたけど、まあ早期発見でよかったと安心していた。その人はmhkよりちょっと上の女性。やっぱり女友達には全てが終わってから告げてよかったなと思った。今から癌で手術する!なんて言ったら過剰反応されただろうし、その過剰反応を見た時に自分がショックを受けるだろうと思った。

屋上は外で真冬で寒くてたまらないから、外には出ないで、屋上につながっている階段にぺったり座り込んで電話してた。電話終わった後もしばらくそこで座っていた。出るのはため息ばかり。ああ~ホントに失業したんだなぁ~。今までも転職したから無職の時もあったけど、全て自分で計画して方向性が決まってから仕事辞めてたので、無職の状態も別に不安じゃなかった。

今回初めて思いがけず、突然無職になっのだ。健診受けたの11月29日、手術が12月20日、青年海外協力隊派遣中止決定が12月28日。何だか悪い夢を見ている気分、階段に座り込んだまま、ぼぉ~っとしていた。

しばらく座ってたけど、検温にやってきた看護師さんが心配するといけないし病院内を一回り散歩して病室に戻ることにした。なるべく動いて、腸の動きを元通りにしたいからね!元通りになって、次の道を考えなきゃ。

歩いていると、なにやら騒がしいぃ~。病院スタッフが段ボールを運んでいる。ああ、そ~か。JICAも御用納めって言ってたけど、この病院も御用納めか。もちろん入院患者もいるし、担当のスタッフもいるけど、通常勤務の人は明日からお休みだねぇ~。

ふと、主治医や看護師さん達の顔が浮かぶ。天皇誕生日の祝日からの三連休も来られていた先生、その三連休にいつも来ていた看護師さんと検温の時に話したことも思い出した。

mhk:大変ですね。なかなか日曜、祝日だからといってお休みできないんですよね。看護師さんは。
看護師さん:そうなんですよ。今年の年末はわたし、日曜も祝日も休みはないんです。友達と遊べないんですよ。
mhk:看護師さんも大変だけど、先生も三連休全部来られていて、大変ですね。
看護師さん:ええ、気になる患者さんがいらっしゃる時は医師はいつも来ます。看護師は医師の指示なしには何も動けないからですね。

その会話を思い出して、1ヶ月足らずで突然環境が激変し、唐突に失業してしまったのだけど、それだけ早期発見だったわけで、mhkの治療に医療スタッフがどれだけ力を尽くしてくれたかを思い出した。

すると、、不意に最初の同室の女性がmhkの癌発覚の経緯を話した時に言った言葉も思い出した。
人のために働こうと思ったから見つかった癌ですね。
最初ぎっくり腰になって、痛み止めを飲んで胃をやられ、ちょっと胃の調子の悪いのが続いたのが心配で受けた健診。ネパール派遣を控えていて、2週間後には東京研修が迫っていたので、胃の調子が悪いのが大したことないことを確かめたくて、受けた健診だった。
協力隊受験の際に受けた健診の項目は全てクリアしてたのだから、特に健診を受ける必要はなかった。腹部エコーの項目は39歳までが対象の協力隊の健診には入っていなかった。(シニアからは入っているが)

研修日程が迫っていなければ、もう少し様子を見てみようと思い、健診を受けはしなかった。受けなかったら、クリニックで間違いも起きず、当初予約していなかった腹部エコー検査をされることもなかったのだ。腎癌はみつからなかっただろう。

結局この健診はネパール派遣が決まったから受けたわけだ。

その話を聞いて、最初の同室の女性が言ったのが『人のために働こうと思ったから見つかった癌ですね。』という言葉だった。

JICAが派遣する青年海外協力隊、mhkがこれに応募しなければ、そして合格しなければ、腎癌はこんなに早期のタイミングで見つからなかった。カトマンズでmhkが働く筈だった学校、会えなかった生徒達。行きたかった、会いたかったけど、でも、行きたい、会いたいという思いから見つかった腎癌だった。そう同室の女性が言ってくれたのだ。

その時はまだまだmhkは混乱していたけど、心のいろんな部分が悲鳴をあげていたけど、協力隊が見つけてくれた腎癌だったんだなぁという思いを噛みしめながら、また目から涙が出てきた。

いろんなコトを考えながら、まだまだ自分の心には整理しきれないモノがたくさんあることを感じながらも、その時、腎癌のせいで行けなくなった協力隊という考えから協力隊が見つけてくれた腎癌という風にも考えられるようになったようだ。

環境の激変で心がついていかない状態はしばらく続いたが、協力隊派遣中止が決定したその日、悲しかったけど、そういう風に考えられるようになったのは、誠意を持って治療をしてくれた先生、看護師さん、家族、同室の女性の温かい言葉のおかげだったろう。

この経験で、感謝しても感謝しきれないほどmhkは失ったモノよりすばらしいモノを得たのだ。但し、しばらくは、なかなか前向きになれなくて、前を向いたり、後ろを向いたり、じたばたしていた。人間はそんなに強くはないものだ。そう実感した。

今は日本中、梅雨で、各地で集中豪雨。福岡も今日は一日中雨。この雨のせいでしょうか、1年半前に流した涙のことがしきりに思い出される。ついこの間、シニア海外ボランティアで、既往症の腎癌が理由でシニア海外ボランティアを一次選考で不合格にされたことも、あの時の辛い気持ちのことを鮮明に思い出させている要因の一つかもしれない。

でも、あの時の経験も全てひっくるめて今のmhkを作っている。そう今は思っている。


梅雨についてのブログを表示する.

2007年7月 5日 (木)

メモリアル-腎細胞癌発見19-入院生活 主治医との立ち話-

2005年12月28日(水)
朝に腎癌の組織検査結果が出る。
結果はごく普通の腎細胞眼で、ステージⅠ。特に増殖が速いたちの悪い癌ではなかった。
それはよかったけど、主治医に速効で出してもらった診断書、JICAの健康管理センターにFAXしても顧問医は出勤しておらず、午後になって出勤した途端、派遣は許可できないと連絡。

なんのコトはない、最初から派遣中止は決まってたようだ。お役所としては、ど~してもmhkの協力隊の訓練開始予定の翌月の1月6日の前に書類が欲しかっただけなのだろう。
隊次変更の申請のためには12月28日までに診断書必着』という医療調整員のコトバを真に受けて、組織検査結果の出る日を毎日毎日心配して、結果が出たら即主治医に無理にお願いして診断書を速効で出してもらい、病院の総務からFAX送信してもらったのが馬鹿みたいだった。

この辺は『お役所』の融通のきかないところなのだろうか。

入院前に29日が退院予定とJICAサイドにも言ってあったのに28日までに診断書必着という条件をJICAが出してきた。mhkが入院中であっても、何が何でも期日どおりに診断書を要求してきたわけである。

そんな無理を言って診断書を要求してくるということは、隊次変更の申請が可能だからなのかとmhkとしては、ほんの少しの可能性に賭けようと頑張ったのだ。

隊次変更申請の可能性がないのであれば、治療が済んで、退院後に年明けて診断書を提出するように言うだろうと思ったのだ。腎癌告知を受けたのが12月1日。転移があるかどうかの検査全てを終えた12月5日にはJICAに連絡した。その後12月12日に入院の日程が決まり次第、12月19日~29日に入院すると連絡した。その際に隊次変更の申請をするなら28日に診断書必着と申し渡されていた。

少しでも協力隊派遣の可能性が残るならと、まだお腹も痛む時に必死で先生にお願いし続けて、出してもらった診断書だったが、結局何の役にも立たなかった。

FAX送信した後顧問医師が出勤しておらず、午後出勤してきたら即派遣中止の連絡を病院に連絡してきたことにショックを覚えた。自分が道化のように踊らされていたのだと知ったのだから。

派遣中止というJICAの顧問医師の判断に文句を付けるつもりはない。でも、突然避けようもなく癌という病気の事実を突きつけられた人間に、規定に従って書類のみを要求するという対応は、どうにかならないのだろうか。普段の健康な状態だったら、『お役所はねぇ』と苦笑いで済ませることが、病気の時は精神的ダメージが大きく、傷つくものだ。

もう1年半も前のことなのだが、こうして、詳細に思い出して、書いていると、とても辛くなって、涙が出てしまう。

JICAの医療調整員との電話の後、病室でベッドの周りのカーテンを閉めて、声を殺してしばらく泣いていた。 幸い検温の時間が終わった直後だったので、看護師も来なかったから、泣いているのを見られずに済んだ。家族も来る予定はなかったことも幸いであった。随分長いこと泣いていた。腸が動き出してもお腹が少し張った状態が続いたのに、毎日組織検査が出るかどうかを心配して、先生にお願いしていたので、疲れがどっと出たのもあったのだろう。

しばらくして、そのままベッドに寝ていると、精神的に沈んでしまいそうだったので、散歩に出かけた。真冬で、その年は特に寒くて福岡も結構雪が降って、冷え込みも厳しかった。なので、屋上には出られないし、病院の中を歩き回るだけなんだけどね。

ちょうど、1階の廊下を歩いていると、主治医にばったり会った。目があった時、先生が、にこっと笑った。普段あんまり笑った顔を見たことがなかったので、おやっと思った。そこで、JICAの顧問医の決定を告げた。

mhk :駄目でした。隊次変更申請のためには今日が診断書必着と言われていたのですけど、送ったら、まだ顧問医は来られていなくて、1:00過ぎに来られた途端派遣中止、隊次変更も認めないと連絡が来ました。
主治医:え、検討もしてもらえなかったの?
mhk :はい、(だめ。涙はこらえたけど、声が震えてきた)最初から派遣中止は決まっていたみたいですけど、一度健康診断もクリアして、派遣候補にしたので、それを中止する手続きのためにはどうしても診断書が必要だったみたいです。
主治医:ふ~ん。(首をかしげながら)そのJICAの顧問医というのはそんなに絶対的な権限があるのですか。
mhk :健康問題については専門の顧問医師の意見を重要視しますから。
主治医:ふん。顧問医の意見はたとえ小さな癌でも『癌』という病気になった人は1年以内には派遣はしないという判断なんでしょう。診断書はね、大事をとって、再発の確率を20%と書いたけど、小さい癌だし、今の最新のデータをよく調べると多分10%以下といえる。わたしにできることは協力しますよ。
mhk   :ありがとうございます。

その後会釈してわかれた。

まだ、派遣中止決定を申し渡された直後で泣きたい気分のままだったけど、先生の『わたしにできることは協力しますよ。』という言葉がうれしかった。健康問題はどうしても医師が判断するので、mhk自身が健康体だということを証明するためには、どうしても執刀医である主治医のサポートが必要だったから。

一見ぶっきらぼうな感じだが、主治医は癌告知以来、一貫して患者であるmhkの声に耳を傾けてくれた。尋ねたことは丁寧に説明してくれるし、どうしても協力隊派遣を実現させたいう気持ちをぶつけたmhkの声にも耳を傾けてくれた。

今回は駄目だったけど、手術から時間が経てば、派遣の可能性も出てくるだろうし、その際にもmhkが健康体であることを証明するのに力を貸してくれる主治医が頼りなのだ。

入院中ずっと診断書をお願いしますとしつこく言い続けていたことが少し恥ずかしくなったけど(← 結局JICAが期日中に欲しい書類を用意したに過ぎなかったので)、その際に嫌な顔もせずに対応してくれた先生と、それに協力してくれて、快く総務からJICAにFAXを送信してくれた看護師さん達の親切を思い出し、改めて病院スタッフに対する感謝の気持ちでいっぱいになった。

退院後、年明けてからがJICAに対して健康体を取り戻したことをアピールする本番だと思っていたので、それが退院する前に派遣中止、隊次変更申請却下が決まり、気持ちがすっかりくじけてしまった。何しろ協力隊派遣のために会社を辞めた翌日の癌告知、治療は告知後1ヶ月以内に済んだというのに、退院前派遣中止=(会社を辞めていたので)失業となったのだ。今からいっしょに協力隊派遣される仲間との新たな出会いがあるとわくわくした気持ちで、未来に向かって羽ばたこうと思っていた矢先に羽を1本残らずむしりとられた気分だった。

その最悪の気分の時に『私にできることは協力しますよ。』と言ってもらったことは、随分救いとなった。

その夜もベッドの中で随分泣いたけどね。

腹部エコー検査でしかわからなかった自覚症状なしの状態の癌告知で、自分が病気だという事実が受け入れられない状態で無事に治療を終えられた。早期発見で結構なことなのだが、心はなかなか受け入れられないままだったのだ。

多分会社勤めを続けている時だったら、治療が終わった段階で、退院後自宅療養の必要もなく、勤務開始可能という状態だったから、何ということなく日常生活に復帰できただろう。それが、mhkの場合は病気=失業という、仕事の面でいうと、最悪のタイミングだったため、ちょっと心のダメージも大きかったようだ。

mhkの理性とは違ったところが悲鳴を上げていた。退院直前はそんな状態だったと思う。

2007年7月 4日 (水)

メモリアル-腎細胞癌発見18-入院生活 JICAの顧問医の決定-

2005年12月28日(水)
前日妹の二人目の娘が同じ病院で誕生。
朝一、朝食の後に残りの抜糸終わり。

その日はJICAの御用納めの日。

mhkは翌年の2006年の1月6日から長野の駒ヶ根訓練所で語学訓練などの訓練を受け、3月終わりにネパールに派遣予定だった。

それが、東京での日本語教師技術補完研修を受ける2週間前に腎癌発覚となり、JICAの方に事情を説明していた。とにかく治療が終わらないと何とも言えないとのことだった。

年内に退院でき、訓練参加、ネパール行きもドクターストップをかけるほどではないという主治医のコトバを伝えていたが、組織検査が出た後、主治医の診断書をJICAの健康管理センターに提出するように言われていた。その診断書を見て、判断するとのこと。

mhkも主治医がいくら訓練参加も可能と言ってくれたとはいえ、年末ぎりぎりの退院では1月6日からの訓練参加についてはJICAの健康管理センターが許可するとは思えなかったので、隊次変更を申請するつもりだった。

当時、協力隊は一次隊(7月出発)、二次隊(12月出発)、三次隊(3月出発)に分かれていた。mhkは三次隊のネパール派遣だった。

自分の勝手な都合は認められないが、やむにやまれぬケースは隊次変更が認められることがある。但し、同じ国に行けるとは限らない。

そういうわけで、一次隊か二次隊に変更することを申請できないかと思ったたのだ。隊次変更って、その隊次に決まっている人もいるわけで、それに辞退者がいた場合にはうまくいけば行けるかもしれないという程度かもしれないが、可能性は捨てたくなかったのだ。せっかく受かって、会社も辞めたのだから。

健康管理センターの医療調整員(看護師資格を持つ)にその旨を入院前に伝えておいた。すると、もともと参加予定の訓練が1月6日スタートなので、隊次変更の申請をするにしても、その年の御用納めの日12月28日までに主治医の診断書が必要だと言われていた。

組織検査結果が出るか出ないかわからないので、JICAサイドのこの条件はかなり厳しいものだっだ。

それで、腸が動き出してからというもの、毎日病室に来られる先生に処置の後、組織検査の結果がまだかどうか尋ねていた。そして、結果が出た後、JICAにFAXを送りたいので外出許可を願い出てみた。先生曰わく、病院の総務からFAXは送れるで外出の必要はなしとのことだった。

前の晩はベッドの上でJICAに出すFAXの送り状を何度も何度も推敲して書いた。診断書とともに送るためにである。

抜糸の後売店に新聞を買いに行って、戻ってくると、同室の患者さんのお母さんが、マイクで先生が呼んでましたよと教えてくれた。急いでナースステーションに行くと、看護師さんが先生を呼んでくれた。

ナースステーションで先生の横に座ると、組織検査結果が出たとのことだった。
主治医:組織検査の結果、普通の腎細胞癌でした。特に顔付きの悪い、どんどん増殖するような癌じゃなかったです。
mhk  :はい。
主治医:で、診断書ですが、こう書きました。

『診断書』
氏名:mhk 殿  昭 42年1月24日生
診断名:右腎細胞癌

右腎腫瘍にて、平成17年12月20日 腹腔鏡補助下根治的右腎摘除術施行。組織学的には、腎細胞癌(stageⅠ)の診断。5年再発率は2割以下と低く、若干の腎機能低下はあるが、日常、通常勤務に問題はない。以下余白。

上記の通り診断します。

平成17年12月28日
福岡市・・・・・・・・・・・・・
○○病院
診療科 泌尿器科
○○(先生の名前)

診断書を読ませてもらう。

主治医:これでいい?
mhk  :はい。
主治医:じゃあ、すぐ、これを外に出せるように事務手続きをするからね。あとで看護婦さんに持って行ってもらう。
mhk :はい、ありがとうございました。

あまり待たされないうちに、病室に看護師さんが診断書を持ってきてくれた。そこで、昨日の晩書いたFAXの送り状を出して、JICA健康管理センターのFAX番号のメモとFAXの料金を渡して、送ってもらうようにお願いした。

送り状の文面は以下の通り:
国際協力機構
健康管理センタ~○○様(医療調整員の名前)

11/29(火)の、所属の健康保険の健康診断の腹部エコー検査で異常が見つかり、CT等による精査で腎臓(右側)に腫瘤が見つかった件ですが、12/20(火)に手術し、治療が終わり、添付の診断書によれば、日常生活、通常勤務に問題はないので、H.18年一次隊以降の隊次変更を希望するのですが、ご検討お願いできないでしょうか。よろしくお願い致します。

H.17年度3次隊派遣候補生(ネパール日本語教師)
mhk
○○病院にて
mobile:090-×××

送信したのは午前11:00頃。とりあえず、JICAサイドから言われていた、12月28日までに診断書必着という条件はクリアしたので、翌年の1月4日に業務が始まった後、検討してもらえるだろうと最後の希望をつなぐことができたかなと安堵。

総務にFAXを送信しに行ってくれた看護師さんが戻ってきて、書類一式返してくれた。無事に送信できたとのこと。早速病院のロビーに行って、携帯電話でJICAに連絡。

mhk     :今病院ですが、総務から健康管理センターの方に診断書をFAXしました。
医療調整員:はい、受け取りました。まだ、顧問医師が来られていないので、来られてからになります。でも、癌だと派遣は非常に難しいと思います。
mhk     :はい、1月6日からの訓練参加は主治医の先生は可能だと言われていますが、自分でも、それは避けた方がいいと思っています。ですから、隊次変更の申請をしたいのですが。
医療調整員:隊次変更だと、ネパールに行けるとは限りません。運がよくても別の国になると思います。
mhk     :はい、こちらの勝手な都合なので、それは仕方ないと思っています。
医療調整員:とにかく顧問医が来られてからになりますから。そちらは病院ですが、携帯に電話しても大丈夫ですか。
mhk    :はい。病室で電話できませんが、電話があったことはわかるので、その後でロビーに移動してこちらからかけ直しますから構いません。

組織検査結果がその日の朝、主治医の元に届いた後、主治医が速効で対応してくださって、朝の11:00にはFAX送信完了!あれだけ急がせたJICAの方は・・・顧問医師がまだ出勤していない・・・。何だかちょっと違和感を感じるが、まあ仕方ないかなぁと思う。

相変わらずお腹が張って食欲はないが、お昼もなるべく頑張って食べてみる。しばらく五分がゆが続いていたが、看護師さんから、そろそろ・・・と言われて七分がゆになっていた。

食事中も片時も携帯は離さない。今鳴るか、今鳴るか・・・とじっと見つめていた。

食事が終わって、しばらくして、午後1:00過ぎ 携帯が鳴った。JICAの健康管理センターの番号だ。

病院のロビーに移動。出ると・・・・

医療調整員:やっぱり、今回の派遣は顧問医は許可できないということです。
mhk     :はい、今回無理に派遣して欲しいとは言ってません。隊次変更の申請をしたいのです。
医療調整員:それも・・・青年海外協力隊は2年途上国に行きっぱなしで、途中帰国できないので、次回受けたとしても2年行きっぱなしというのは顧問医は許可できないと言っています。
mhk:でも、カトマンズではJICAのプロジェクトで10年かけて大学病院にCT、MRIなどの医療機器を入れていますし、検査はできるでしょう?(← これも過去現地で医療調整員をやっていた経験を持つ妹の友人を介して情報入手していた)
医療調整員:いくら医療機器があっても、それを見る人が外国だと熟練していないので。
mhk     :(心の中では、JICAが10年もかけて、しかも、膨大なお金を投じてやったプロジェクトが結局は機能していないって自分で言っているわけ???と疑問)
医療調整員:mhkさんは健康診断書見ても、血液検査などの項目は全て基準値に入っていますから、長期の派遣は駄目でも短期の派遣を考えられたらと思います。顧問医も1年だったら派遣可能だんだけどと言っていますし。それと失礼ながら、mhkさんはあと1年とちょっとでシニア海外ボランティアの対象年齢です。シニアだと2年派遣でも途中1年したら健康診断の名目で帰国できますから、それで派遣を考えられたらと思います。そにかく青年海外協力隊の2年派遣は許可できないという顧問医の見解です。
mhk  :(もう、そこまで言われたら涙がとまらなくなっていた。震えながら)わかりました。

これで全て終わった。ネパール派遣へと夢見て会社を辞めたのが2005年11月30日。
前日29日に受けた健診で引っかかり、
翌日12月1日癌告知。
12月20日 右腎摘出手術
12月28日 組織検査結果後、診断書提出、JICA顧問医の決定はネパール派遣も隊次変更も許可できない。

12月28日のJICAの御用納めまでに診断書を提出しないと隊次変更の申請もできないと言われて、先生に無理にお願いして、診断書をかいてもらったのに、その検討もしてもらえなかったんだなぁ~ JICAは検討する気もなかったんじゃないだろうか。

28日までとタイムリミットを設けたわりにはFAX送信した昼前には顧問医は出社しておらず、1:00過ぎに医療調整員が『ようやく出社されました。』と言って電話してきたけど、診断書みるやいなや即許可できないと。

最初から派遣許可しないということは決まってたんだろうな。とにかく、訓練開始の1月6日の前に派遣中止の決め手となる診断書がどうしても欲しかったのだろう。腎癌告知された後、とにかく治療を終えて、ネパール派遣、ネパールが駄目なら隊次変更申請という形で協力隊派遣を実現させよう、の一心で入院生活を乗り切ろうと思ってきたので、その電話を切った後、抜け殻のようになった。

病室に帰って、その日は家族は来ないことになってたし、カーテンを締めて、しばらく声を殺して泣いていた。同室の人が前日に手術を終えていたので、うるさくないように。

今まで気が張っていたで、余計にがたがたとなってしまった。抜糸が終わったばかりだが、まだお腹の傷は少し痛む。ドレーンチューブが入ってたところはまだガーゼをを当てているし。ナースステーションの横のロビーのソファーでお腹を抱えながら電話していた。

本当に悲しかった。

2007年7月 2日 (月)

メモリアル-腎細胞癌発見17-入院生活 術後7-

2005年12月27日(火)
癌ができた右腎臓摘出手術を受けたのは1週間前の20日。
1週間たって、順調に回復しているので、抜糸。奇しくも、その日は妹の二人目の娘が誕生。同じ病院の産婦人科で。

抜糸をしに担当医登場~。
傷は3つある。まず、おへそのちょっと上に縦7cmの傷。← ここから先生の手が突っ込まれ、密閉した後内視鏡で処理され、最後にここから右腎臓摘出したトコね。
それとおへそから右に6cmくらいの位置に横1cmの傷。ここはカメラのポートが入ってたとこらしい。
そして、3つ目は最後までドレーンチューブ(廃液チューブ)が付いていたトコで、カメラのポートが入ってた傷から右に5cmの位置に横1.5cmくらいの傷。

ドレーンチューブが最後までついていた傷は、チューブを抜いた後で毎日消毒してもらってて、ガーゼをあててテープでくっつけてある。

カメラのポートが入ってたところはホッチキスが1カ所、先生のおててが入った1番大きな傷はホッチキスが数個刺さっている。

抜糸はそのホッチキスを先生がピンセットで抜いていくのだ。別に痛くないのよ。← 読んでブルっとした人いたかしら??

その日はカメラのポートが入ってたトコの1個のホッチキスと先生の手が入ってたトコのホッチキスを1個おきに抜かれた。残りのホッチキスは翌日抜くそうな。

ホッチキスを抜いた後、いつものようにドレーンチューブのくっついてたトコの傷の消毒をしてもらった。

さて、看護師さんが先生に渡そうとしたガーゼが大き過ぎたらしい。← mhk本人は消毒してもらってて、体を横たえているからよくわからないけど・・・。

担当医:そんな!大きいよ!
看護師:(どぎまぎしながら・・・)え、えっと、どれくらいですか。
担当医:もう殆ど出てないんだからさぁ。(← 傷痕から血が出てないってこと)
看護師:えっと・・・(← 何故かガーゼをどれにするか迷ってて、手間取っている)これくらいでいいですか?
担当医:もう、そんなに出てないのに。ねえ。(← これはmhkの方を見て・・・いや、mhkは血とか駄目なので、傷口なんて見れないのだ!!!ずっと見るのは避けていた。ドレーンチューブがついていて、透明なチューブの中を自分の血が通っていくのが目に入るだけでくらくらしてくるくらいだったのだ。そんなこと振られても困るよ!!!)
看護師:あの、これくらいでいいですか。(なぜか、おずおずと)
担当医:そうやろうね。

看護師さんと担当医の会話・・・何だか不毛~。看護師さんは自分でも消毒なんてしょっちゅうするだろうし、患者がそこにいるんだから、傷を見ればガーゼのサイズなんてわかると思うんだけど・・・・。どうして、そんなにおずおずと迷うのかわからないぃ~。先生も看護師さんがぐずぐずしているんなら、その○○cmくらいのでいいよとか言ってあげればいいのにぃ~・・・。よくわからないなぁ~。

この担当医の先生、淡々としてて、声はちょっと甲高くて、大きい。mhkは関西で4年働いていて声の大きいオヤジにまみれて働いていたから、声の大きい人が怖いとかは思わない。mhkにとっては、心がネパールに向かって一直線!!!の時に突然降ってわいてきた腎癌という事実で、理性では病気の早期発見でよかったと安堵して、受け入れているつもりでも、あんまり突然だったので、心は対応しきれなくて、おたおたしてた時だった。
なので、あんまり余計なことをべらべら喋られるより、こっちが聞きたいことに対してきちんと説明してもらえる担当医でとても助かった。

でも、新しい同室の患者さんは『mhkさんの担当の先生、怖いですねぇ』って言ってた。横で聞いていると、言いたいことだけ言って、さっと病室を出て行く先生が怖く見えたそうだ。だって、処置されている時って、お腹出しているし、処置が終わって看護師さんが寝巻着せてくれる間って別に先生はすることないよねぇ。

でも腸が動き出して、多少お腹張っているとはいえ、だんだん調子が戻ってくると、ネパールに行くために診断書書いてもらいたいもんで、先生が病室を出て行こうとする度に呼び止めてたっけ。お腹出した状態で・・・看護師さんが着せてくれる途中の凄い格好のままだったかもぉ~ ← ネパール行きが気になるもんで、全くmhkは当時気にしてなかったけど・・・。まぁ、どうせ腎臓鷲掴みにされているんだし、今さら・・・よね?
先生を呼び止めては、カトマンズの病院の医療機器のリストの資料とか渡して説明したりしてた。

患者が呼び止めると必ず戻って、きちんと話を聞いてくれる先生だったから、mhkは特に不満もなく、頼りになる先生と思ってたけど、同室の女性は担当医が女医さんだったし、ざっくばらんに話すタイプの先生だったから、しきりに自分は女の先生でよかったぁって言ってた。そんなに怖いかなぁmhkの担当医・・・???

その同室の女性と同様、消毒の時の看護師さんは、この先生の声の大きさとかが内心苦手だったのかもね。前にも書いたけど、別の看護師さんは『あんなにしているけど、○○先生、全然怖くないんですよぉ~』って言ってた。← いや、mhkは怖いなんて言ってないし、思ってもないんだけど・・。

まぁ、そういうわけで、2人目の姪が同じ病院で生まれた日に、抜糸が半分終わったのだ。着々と体は回復していってた。相変わらずお腹は張っているけど。傷の痛みは殆どなくなっていた!

 

2007年7月 1日 (日)

メモリアル-腎細胞癌発見16-入院生活 術後6-

前回のメモリアルから2週間以上たってますね。
腎癌発見のタイミングは、もう少し早かったら小さくて、エコー検査でも見つからず、ずっと後だったら癌が大きくなってしまうので、転移もあったかもしれないわけで、癌の早期発見という点では最高によいタイミングでした。

でも、仕事のことを考えると、夢だったネパール2年派遣の研修の2週間前、派遣のために会社を辞めた翌日の癌告知、術後、派遣中止で失業、その後の派遣への応募でも何度も執刀医の診断書の提出を求められたりと、最悪のタイミングでした。

でも、大連短期派遣が実現し、シニア海外派遣も8ヶ月派遣においては健康問題で一次選考で不合格ということもなく、もう腎癌に阻まれるモノはmhkの人生ではなくなった!克服したと思い、今腎癌の告知を受けた人、将来告知を受ける人にとって参考になればと思って自分がどう腎癌発覚から病気と向き合っていったのかの記録を『メモリアル』という形で残そうと思って始めたブログでした。

ちゃんとした病院のちゃんとした医師が診てくれて、ちゃんとした処置をしてもらったら完全に健康体を取り戻せたという記録を残しておこうと思ったのです。

でも、まだ腎癌はmhkを解放してくれないようです。前回の『メモリアル』を書いた段階では完全に過去のモノとして扱ってたmhkですが、まだまだ社会はmhkを『健康体』扱いしてくれません。闘いはまだまだ続きます!

でも、mhkはめげてませんよ。腎癌になったからわかったこともたくさんあったので、mhkは今でも幸せです。腎癌になった経験を持つmhkがまぎれもない『今』のmhkなんですから。

前置きがながくなりましたが・・・始めます。

2005年12月26日(月)
同じ病室に前日退院した女性と入れ違いで新しい方が入院。
病名は2003年7月にした手術と同じで、卵巣嚢腫の手術。組織検査しないと厳密にはわからないけど、ほぼ良性と思われる腫瘍。でも、ご両親、本人も婦人系の病気になったことで、非常に深刻な表情。気の毒なくらい・・。←mhkが手術前のんき過ぎたのかもしれないけど。そういう意味ではmhkは手術に関しては鈍感力パワー全開だったようだ。

翌日抜糸の予定のmhk。お腹の傷は糸でくっつけてなくて、ホッチキスがパチンパチンと打ち込まれているのに、やっぱり抜糸っていうんだなぁって変なトコで感心する。(← いつか日本語学習者に糸じゃなくても抜糸だと教えてやろう~と日本語教師の心がちらり)

先生がドレーンチューブの傷口の消毒にやってくる。消毒が終わって、早速・・・気になるコトを聞いてみる。

mhk  :あの~もう手術から1週間ですよね?組織検査の結果ってまだなんですか?
担当医:まだ来てません。
mhk  :あの、これ、ネパール、カトマンズの病院にある医療機器の一覧なんです。(事前に妹の友人でJICAの医療調整員の経験のある人からカトマンズで一番大きな大学病院の名前の情報をget、そのwebサイトを調べておいたのだ。そこが所有する医療機器の写真が載っているページを印刷して持ってきておいたのだ。)
担当医:(見ながら)え、これ、違うんじゃない?
mhk  :(傷が突っ張って痛いけど急いで起きあがる。消毒されていたから体横たえてたのでね。見ると、自分へのネパール派遣の要請の書類を間違って渡してたみたい。)あ、これ違いますね。こっちです。MRIもCTもエコーの装置もありますよ。
担当医:(見ながら)CTがあるのか。じゃ、いいかなぁ。
mhk  :(先生のそんな一言が嬉しくって仕方ない!)
担当医:組織検査結果が出てからだね。

そう言って、先生は病室を出て行かれた。mhkは小躍りしたい気分!でも、相変わらずお腹がはって、腸の動きは鈍い・・・。お食事はその日の昼から七分がゆになる筈だが、到底無理だと思って、五分がゆをしばらく続けてほしいとお願いした。

さて、実はこの日妹がお産のため、同じ病院の1階上の病室に入院。翌日帝王切開の予定。あ~あ、何も姉妹で同じ病院に入院しなくてもいいのにねぇ・・・。妹が大きなお腹のまま遊びに来た。妹は翌日腹切りである。

姉妹揃ってお腹切られるなんてねぇ・・・。

2005年12月27日(火)
同室の人と妹は手術。mhkは入院時に持参したデジカメをカーディガンのポケットに忍ばせて、4階に行く。ナースステーションにちゃんと断ってね。

行くと妹の連れ合いの義弟(mhkより6歳上なんだけどね)がいた。しばらく待ってたら、手術終わった妹がベッドごと運ばれてきた。産婦人科の執刀医が出てきて、とっても可愛い女の子ですよ。と言ってくれた。

その後は義弟とmhkは新生児室の窓に張り付いて撮影しまくりである。二人ともにたにた馬鹿面ひっさげて、パチリパチリ!

しばらくして、産婦人科医が入ってこられて診察するからと連れて行かれるまで二人とも窓に張り付いていた。

妹の上の子が生まれる時はmhkはオーストラリアのメルボルンにいたので、生まれたての赤ちゃんは初めてである!ラブリー~!!!

診察で連れて行かれたので、mhkも自分の病室に戻った。病室に戻ると組織検査の結果はまだだし、お腹は張っているしで、ため息ばっか。同室の人もベッドごと不在。手術だからね。夕方までは病室はがらんとしてた。

さっき、赤ちゃん見てはしゃぎ過ぎたせいか心がぽっかり。気を取り直し、持参したノートpcにデジカメのデータを入れて、赤ちゃんの顔を眺めていた。

考えてみたら、姉妹揃って入院だなんて珍事だったが、腎癌の手術のための入院の日程に姪の誕生という超めでたいイベントが入ったこと(しかも同じ病院で)で最も救われたのはmhkかもしれない。

腎癌の手術するための入院にデジカメ病院に持ってくる人なんてそうはいないよねぇ~。

2007年6月13日 (水)

メモリアル-腎細胞癌発見15-入院生活 術後5-

2005年12月25日(日)
右腎臓摘出手術を受けて5日目にお食事スタート。クリスマスイブにようやくガスが通ったのでね。

お食事始めたけど看護師さんの勘違いで、流動食スタートが三分がゆスタートとなり、腸には優しくないお食事スタート。

1度ガスが申し訳程度に通ったとはいっても、やっぱり腸の動きはあんまりよくなくて、お腹に空気が溜まっているようないやな感じ。点滴の量が少なくなり、点滴の針を抜いている時間も多くなったので、身軽な時はなるべく病院の廊下を歩き回って、腸よ、動け!!!早く回復してネパール行ってやる!!!と頑張ってみたが、なかなか元気にならないmhkの腸~。

そうそう、術後何日かガスが通らなくて苦しんでた時、息苦しくてたまらなかったんだけど、その原因となってた腰痛と背中の硬膜外麻酔のチューブのことにまだ気が付いてなかった。原因がわからないから不安で、上半身を起こすのが辛くて、べそかいてた時、担当医がすぐ来てくれて、いろいろ処置してくれたんだけど、その時に担当医が言った言葉にはっとした。

担当医:こういうね、大きい手術をした時はね、手術の間腸の動きを止めているから、手術の後、なかなか腸が動き出さないことがあるよ。

mhk:(え~!!!! わたし大きな手術をしたのぉ~!!!!???だって、癌告知の時も手術の説明の時も、まるで美容師が髪の毛切るみたいに、当たり前に話してたじゃないのぉ~先生は!!!)← 無言だが、心の中で絶叫~。

以前の卵巣嚢腫の手術では手術時間40分で、腹腔鏡下の手術で傷は5mm、入院期間1週間。傷口も小さいから術後翌日に尿管もとってもらい、歩き回り、腹筋もokだったほど元気いっぱいだったmhk

腎癌で右腎臓摘出の手術の説明で、同じ腹腔鏡の手術、傷は7cmで、ちょっと前と比べると大きいなって思ったけど、入院期間も10日程度って言ってたし、検査入院もなく、なぁ~んだ、前の入院より3日長いだけだぁ~って軽~い気持ちだった。
とにかく、早く回復して、JICAにネパール派遣中止にならないようにアピールしなくっちゃ!!!って思ってた。

が、実際は・・・というと、今回は手術時間4時間だったから、腸の動きが止まっている時間が長かったし、、術後は随分お腹の張りで気持ち悪かった・・・。それでも、簡単な手術したんだとしか思ってなかったmhk・・・もちろん、腎臓は片方取っても比較的体に負担がかからない(も1個の腎臓が正常なら)臓器だから、決して難しい手術というわけじゃないけどね。

でも、手術後に担当医から『大きな手術を受けた後はね・・・』と言われて初めて、あ、私、大きな手術受けたんだぁ~って思った。← のんきすぎ???

それくらい術前は先生にお任せしておけば安心!と信頼できたわけで、JICAにネパール派遣を取り消しされるかどうかという不安はいっぱいで、随分悲しくて泣いたけど、手術自体に不安を感じたことは入院前はなかったのだ。(以前書いた、手術日の朝、看護師長に『やっぱり不安よねぇ~』って肩抱かれて言われた時にちょと不安がよぎったけど、それまでは全く!)

そういうわけで、mhkは大きな手術をしたんだな、ちょっとくらい腸が動き出すの遅くても仕方ないのね、異常なことが起こっている、回復が遅れているわけじゃないんだなと担当医のお言葉を聞いて、ベッドに横たわったまま納得したmhkだった。

お腹の張りがあって、苦しかったとはいえ、手術の傷の痛みは日にち薬とはよく言ったもので、どんどん回復して、順調だった。

最初に三分がゆでスタートしたから、ちょっとお腹がまたきつくなり、五分がゆのあと七歩がゆにするのはやめてもらって、五分がゆを続けてもらったりしたけど、ちゃんとよくなっているって感じだった。

同室の女性が25日に退院して、翌日26日から別の女性が入院。新しい同室の人は年齢がmhkより3歳くらい下だった。福岡市内の大学の事務をやっている人だった。病名は卵巣嚢腫。以前mhkがやった手術と同じ。婦人科の患者さん。彼女の担当医は女医さん。

普段は一人暮らしらしいけど、佐賀からお母さんが福岡市内に泊まって入院中通ってこられていた。腹腔鏡下の手術だし、それほどきつくない手術だし、良性と思われる物だから緊急を要さないのだけど、本人が婦人科系の病気になったってことで、ものすご~くナーバスになり、年明けてからなんて悠長なこと言ってられない!!どうしても年内に手術をってことで、随分押し迫って入院してきたのだ。

なんか見てて痛々しいくらい不安そうだった・・・。以前同じ手術をこの病院でしたんですよぉ、この病院は婦人科は有名だし、実績あるからお任せしておいたら大丈夫ですよぉって言ったらお母さんも本人も安心されていたよ。← この方たちの反応見ながら我が身ののんきさを顧みるmhkであった。

さて、お腹が多少苦しいとは言ってもクリスマスからお食事スタートし、俄然心はネパールへ!!!先生に診断書書いて~と診察の度にアピールを始めるmhkだった。

3連休だったというのに担当医は毎日病室に来られた。結局12月19日~29日までの入院期間は毎日担当医はmhkの病室に来られていた。術後息苦しくて随分騒いだっていうのもあったのかも・・・。

先生、あの時はお世話になりました。ホントに感謝してます。大きい手術してもらったことも術後しばらくたって先生がおっしゃるまで気が付きませんでした・・・けど。



2007年6月 5日 (火)

メモリアル-腎細胞癌発見14-入院生活 術後4-

2005年12月23日(金)
その日は天皇誕生日祝日。

相変わらず腸は動かず、お腹が張っている。きつい、眠れない。今日は祝日だし、担当医は来ないんだろうなぁって思ってたら、同室の人の朝食が終わった頃に病室に来られた。
こっちはぐったりしているけど、明るい声で『おはようございます。』と言って、『お腹の音聞かせてねぇ』と聴診器を当てる。

通常なら挨拶されて、挨拶返さないなんてことないけど、お腹張っている上に、眠れなかったもんで、挨拶されても誰にされているかわからないというか、ぼぉ~っとして、なんか遠くで声が聞こえる感じ。反応が非常に鈍い感じ。何だか自分が自分じゃないみたい・・・。

聴診器当てた後、『まだ、動いてないね。』と言われた。

さて、夜中も相変わらず眠れず・・・。お腹が張って気持ち悪いし、体動かしたり、座ってみたりしてたけど、口からゲップはよく出ても、下に通らない。でも、ようやく明け方4時過ぎて、申し訳程度にお尻からガスが通った。ほんの少し。スッキリしたって感じじゃないし、ほんの少し抜けても、お腹に溜まってくる空気の方が多い感じで相変わらす張ってたけどね。

でも、翌日クリスマスイブの朝、看護師さんに報告!
腸が動き出したからその日はお水を飲んでいいと言われる。

クリスマスイブの明け方にガスが通ったわけねぇ。その日は担当医は午後に病室に現れた。

担当医:おなら出たんですね。じゃあ、お水を今から少しずつ飲んでね、明日の朝から流動食、2回流動食で、次が三分がゆ、それも2回同じで、次が五分がゆと段階的に挙げていきましょう。三分がゆの時には漢方の消化剤だしておきますからね。
mhk:あのぉ、お水は看護師さんに飲んでいいと言われたので、もう少しずつ飲んでたんですけど・・・。
担当医:あ、構いませんよ。

何だかうれしいぃ~。一歩前進!!!って気分。もうお腹の傷も随分痛みが取れてきて、腕に全体重かけてお腹に力を入れないように要領よく起きることに慣れてきたから、起きあがるのがそれほど苦じゃなくなってきた。

ちょっと気分は晴れたものの、やっぱりガスが時々申し訳程度に抜けるとはいえ、お腹にガスが溜まってくる感じで、相変わらずお腹が張ってて、気持ち悪い。なるべく体起こしたり、歩き回って、腸の動きが活発になるようにと頑張ってみるんだけど、なかなか・・・。結局、あんまり眠れなかったねぇ・・・。

翌日 2005年12月25日(日)
お腹が張ってて、食べたい気分じゃないけど、朝食と昼食は流動食の筈。チャレンジしてみよう~!!!食べないとネパール行くための診断書書いてもらえないかも・・・なんて、いらん考えがよぎったりするもんで・・・。

で、朝食に出てきたメニューは・・・どう見ても流動食じゃない。何分がゆか知らんが、これは間違いなくおかゆだ・・・。ジャガイモのみそ汁もある。ほうれん草はものすごく柔らかくゆでてある。ん???

その日も日曜日で朝一は担当医は来てない。三連休の間、初日の23日は朝一来られていたけど、その後は午後から来られていた。休みだもんね。連休中も必ず病室に毎日顔を出されていたよ。ありがたいことです。

まだお腹張っているし、心配になり、ナースステーションに向かう。
mhk:あのぉ(おかゆなのに消化剤もないので心配・・・)先生は消化剤を出すって言われていたんですけど。
看護師;いいえ、そんな指示出てませんよ。
mhk:でも、昨日はそう言われていたんですけど、今お腹空いていないし、先生が来られるまでお食事するの待ってましょうか?
看護師:いいえ、大丈夫ですよ。食べてください。
mhk:????

流動食から変更になったのかなぁ・・・と思いつつ、食べてみる。少しずつ少しずつよく噛んで。かなり食べられたけど、不安。案の定食事の後、ちょっとお腹の張り方が酷くなっている。痛いって程じゃなかったけど。

昼食の直前に担当医登場~

担当医:流動食、食べられた?
mhk  :え???
担当医:大丈夫だった?
mhk  :あのぉ~(同室の女性の顔を見ながら)流動食じゃなかったですよ。
担当医:え?
mhk  :何分かゆかは知らないけれど、三分がゆくらいですか?(←これは栄養士資格持つ同室の女性に)
同室の女性:多分三分がゆかなぁ。
mhk :ジャガイモがおみそ汁には入ってたし、ほうれん草も・・・。流動食じゃないと思います。消化剤も出てないし・・・・。
担当医:ああ、消化剤は(流動食のつもりだったから)まだ出してないね。

担当医、しばらく考えて、つっと病室を出た。mhkと同室の女性、顔を見合わせる。ちょっと時間が経って、担当医の大きな声が響いてきた。ナースステーションで看護師さん達に話している。

mhkの病室とナースステーションの間に2つ部屋がある。その1つは経過観察室で、かなり広い部屋。でも、先生の声はびんびん響く・・・マイクも使わんのにねぇ~。因みに相手の看護師さんの声は全く聞こえない。

担当医:どうしてmhkさんが流動食って覚えているのに、私が指示した通りになってないの!!!お米の粒があったそうじゃないか。みそ汁にはジャガイモが入ってて、ほうれん草もあったって。

mhkと同室の女性、お腹かかえて笑い出す。さっきmhkが言ったまんまだよ・・・。

しばらく小言が続いたようで、ちょっと時間が経って戻って来られた。

担当医:(mhkにむかって)まぁ昨日からお水を飲んでたからねぇ。大丈夫だよ。これから昼も三分がゆで、その後五分がゆにして、段階を上げていきましょう。(← 看護師さん達のミスをフォローしたつもりだろうが、丸聞こえだったのよ。。。。)
mhk:はい。(同室の女性の方は見ないようにする。彼女が肩を震わせて笑うのをこらえているのがわかったから。目があったら吹き出しそうだったもの)

しかし、これは、あんまりよくなかった。三分がゆはおかずも柔らかめになっているが、五分がゆはおかず自体は普通食とほとんど一緒。三分がゆの間はよかったけど、五分がゆは、かなりお腹にきつかったよ・・・。

忙しい中、とってもテキパキと優しく看護してくれる看護師さんも、たまにミスすることはあるんだろうね。

夕食の五分がゆがきつくって、その夜は、また眠れなくなった・・・。

2007年5月26日 (土)

メモリアル-腎細胞癌発見13-入院生活 術後3-

2005年12月22日(木)
尿管取れて、歩けるようになったし、息する度に苦しくなる症状もなくなったし、あとはガスが通ってくれるのを待つばかり・・・

しかし、ガスはなかなか通らない。腸がなかなか動いてくれないのだ。
手術後も毎日担当医は病室に来られる。

お腹の音聞かせてねと聴診器でmhkのお腹の音聞いてみるけど、『まだ動いてないね。』実際ガス通ってないから、息するたびに締め付けられる症状はなくなったとはいえ、相変わらずお腹が張ってて気持ち悪い。

尿管も取れたから、なるべく歩いて、体動かして腸が動いてくれるように努力する。まだ点滴が腕にくっついているから、ごろごろキャスター転がしながらトイレ行ったついでに廊下をうろうろしてみたり、頑張るが、へそ曲げちゃったmhkの腸は動いてくれない。。。

体を横たえていると、どんどんお腹が張ってくる感じで眠れないし、下にガスは通らず、赤ちゃんみたいにゲップが出るし、ホント気持ち悪い~。

そのことを担当医に訴えると、念のためレントゲン撮影と言われる。
担当医:あ、今度は装置持ってくるんじゃなくて、こっちから行こうか?(前日はポータブルのレントゲン装置が病室に持ってこられて撮影)
mhk:はい。

その後看護師さんが車いす持ってくる。え、やだぁ~。歩けるんだし、病室3階で放射線科は1階だけど、『エレベータがあるから歩いていけます。』と主張。
その日までジャッジアップもできないと言ってたのが背中のチューブ外した途端立って歩けるようになったのだけど、看護師さんは随分心配だったみたい。
難色示されたけど、最後は歩いていっていいと言われた。

寝ているとお腹張ってくるんだけど、かえって立って歩いている方が楽だったのよ・・・。それと、お腹の傷7cmあるから体を横たえたり、座ったりする瞬間はお腹引きつって、まだ痛い。歩いていくと、レントゲン撮影のためにベッドに横たわる時と撮影後に体起こす時は痛いけど、それだけで済むもの・・。車いすで行くと車いすの乗り降りの際にお腹が引きつる・・・。

レントゲン撮影したけど、やっぱり異常なしだった。ガスが通るまではこんな感じなんだろうねぇ・・・。

消灯前はなるべくお散歩したり、ベッドでも体起こしてたり、椅子に座ったりしてたから、それほど辛くなかったけど、消灯後体を横たえるとお腹が張ってきて気持ちが悪くて全然眠れなかった。

体を横たえるとお腹が張ってくるので、何とか楽な姿勢はないかと、ベッドの中で姿勢をかえてみる。少し斜めにして、枕かかえた姿勢がちょっと楽だったので、そのまま目をつむった。

うつらうつらしていると、消灯後の看護師さんの見回りがやってきた。
mhkの格好かなり寝巻が乱れている。随分いろんな姿勢を試したのでね・・。でも、掛け布団かけているし、今の状態でようやくちょっとは楽になったし、ようやく眠れそうだった。

でも、やってきた看護師さんは・・・
看護師:まぁ、随分寝巻が・・・
そう言って、1度mhkの寝巻をほどいて、手術の傷の箇所に巻いてある腹帯もほどいて(これも随分ぐしゃっとなってた)結び直す。でも・・・傷にあたるくらいきつく縛りあげた・・・・・
mhk:ゃ~!!!!!(← 消灯後だし、同室の隣のベッドの人はすやすや寝息たてているし、大声は出したくなかったけど、ものすご~く痛かったの。だって、傷の部分を縛りあげたんだよ。普通はあたらないくらいに緩く結ぶのに・・・。自分でも自分の叫び声に驚くくらいデカい叫び声だった・・・恥ずかしい~)
看護師:ごめん、ごめん、だって、結び目がずれてたから・・・。
(腹帯がずれてても誰も困らんよ・・・。涙目のmhk)
腹帯を縛りあげた後、その看護師さん、寝巻も同じ場所で縛り上げた・・・。傷にしっかりあたった。
mhk:(再び)ぎゃ~!!!!!
看護師:ごめん、ごめん、だって、寝巻もはだけてたから・・・。
(はだけてたって誰も困らんよ・・・。痛くて涙が溢れているmhk)
最後、トドメ・・・。看護師さん、mhkが斜めに寝てたのを、よいしょぉ~っとまっすぐの状態に抱えて直してしまった。
mhk(三度目)ぎゃ~!!!!
看護師:ごめん、ごめん、だって、斜めになってたから・・・。
(斜めに寝てて何か不都合でも?加減無く移動させられたから再び傷が痛かったし、せっかくお腹があんまり張らない姿勢になってたのに、再びお腹が張ってきて、気持ち悪くなった。)

この看護師さん、ちょっと年配で主任さん・・・。そういえば・・以前入院した時も乱暴だったな・・・。この人。この病院の看護師さんは殆どの人が丁寧だけど、どの病院でも1階に1人くらいは粗忽で乱暴な人いるのよね。妹が上の階の4階に入院してたけど、1人乱暴な人いるって言ってたっけ・・・。

手術の傷ってちゃんと縫ってあるし(ホッチキスがパチンパチンと留めてある)、動きすぎて傷が開くということはないの。傷が開く心配はないから、術後、尿管が取れたらなるべく歩くように、動くようにと手術前に渡された説明書に書いてある。

傷が開く心配は無いとは言っても、不必要な痛みはいやだよねぇ・・・。

その日は眠れなかった。看護師さんが言ってしまった後、お腹は痛いし、張ってくるし、涙がぼろぼろこぼれてきた。

ガスが通ったのは12月24日クリスマスイブ。mhkの腸はなかなか動いてくれなかったの。しばらく苦しい思いをすることになるのだった。

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